旧青梅街道、古道を歩く。
こんばんは。
またしても前回の更新から間が空いてしまいました。前回記事アップ後、すかさず次の記事を・・・と思っていたんですが、今回の記事は地図を描いたりとかがあったので、愚図愚図しているうちにあっという間に2週間。記事そのものは7月24日の話なので、もう2ヶ月も前の内容です。古い話になりますが、平にご容赦を。
さて、今回のお題、山に登る話ではありません。山歩きには違いありませんが、ピークらしいピークには登ることがありません。まだ歩いたことのなかった、尾根筋上の古道を歩いてみたお話です。
昨年の7月、大菩薩峠の南にある石丸峠から東に延びる長大な尾根、「牛ノ寝通り」を奈良倉山まで歩いたことがあります。自然林の中の道が続く、なかなか気持ちのよい尾根歩きのできるルートでしたが、その後いろいろと調べてみると、この牛ノ寝通りがかなり古くから存在する要路であることがわかってきました。東京都(武蔵野国)から山梨県(甲斐国)を結ぶルート、現在では甲州街道(国道20号)、青梅街道(国道411号)が有名ですが、この2つのルートは実は江戸時代以降に整備されたルートです。それ以前、律令時代に整備された、武蔵府中(東京都府中市)と甲斐府中(山梨県甲府市)を結ぶ官道の一部がこの牛ノ寝通りなんだそうです。
この官道「古甲州道」は、東京の府中市から発してあきる野市から秋川沿いに檜原村の本宿(檜原村役場のあるあたり)まで延びています。その先、払沢の滝の脇から浅間尾根に登って尾根伝いに三頭山と御前山を結ぶ主稜線に達し、そこからが風張峠経由と言う話と鞘口峠経由と言う話があってはっきりしないのですが、現在の山のふるさと村のあたりまで一旦下りているようです。さらに多摩川・小菅川沿いに小菅村に向かい、大マテイ山の西側で牛ノ寝通りに上がります。牛ノ寝通りの終点の石丸峠からは熊沢山を越えて現在の大菩薩峠を通り、西側に下りて裂石経由で塩山、甲府に至っていたようです。
結構起伏が激しいルートですよね。最初から多摩川沿いに道を作れば楽なのに・・・という気もしますが、多摩川沿いはあの通り深い渓谷が続いています。当時の土木技術では川沿いの急斜面に道を作ることも維持することも難しく、建設や維持の楽な尾根伝いのルートになったのではないかと思います。現在でも沢沿いの登山道は崩落その他で維持が難しく、雲取山東麓の大ダワ林道のように廃道になってしまうこともありますよね。
さて、江戸時代に入ってからは状況が大きく変わります。ご存知のように天領であった甲斐は江戸が攻められたときの将軍の避難先ともなっており、避難路である甲州街道が整備されます。また、江戸城築城に必要な資材、石灰(漆喰の原料)を運び出すため、かの大久保長安によって青梅市成木(高水三山のあたり)まで道路が整備されます。この道路が多摩川沿いに次第に延びていき、青梅街道となったようです。こうなると多摩川沿いに移動したほうが楽ですから、かつての官道、浅間尾根に登って下りて、牛ノ寝通りに登って下りて・・・を繰り返していた古甲州道は次第に廃れ、地元の生活道路となっていきます。
ただ、江戸時代の青梅街道、現在の柳沢峠経由のルートではありませんでした。丹波山(たばやま)村役場付近から村の南側の尾根筋に入り、さらに牛ノ寝通りの北側の尾根筋を通って大菩薩峠を超え、裂石まで下るルートが当時の青梅街道です。また、ご存知の方も多いと思いますが、当時は現在の大菩薩峠よりも北側、親不知ノ頭と妙見ノ頭の鞍部である「賽ノ河原」が大菩薩峠となっていました。中里介山の大河小説「大菩薩峠」の冒頭で、主人公の机龍之介が老巡礼を斬り殺すシーンはこのあたりが舞台です。
青梅街道は標高1,900m近い大菩薩峠越えがあるとは言え、小仏・笹子の二つの峠を超える甲州街道よりは登り下りが少なく、江戸から甲府までの距離が2里(8km)短いため通る人はそれなりに多かったようです。なにより、途中に関所がないため無宿人や渡世人のような訳ありの人たちには好んで利用されたようです。
旧大菩薩峠は「丹波大菩薩峠」「上峠」などと呼ばれ、「小菅大菩薩峠」「下峠」などとも呼ばれていた石丸峠と対になっていたようです。しかしながら、旧大菩薩峠の前後は道も急で、冬季は風雪が激しく遭難者がたびたび出たようです。そういうことから明治9年に現在の大菩薩峠を通るルートに付け替えられたそうなんですが、2年後の明治11年には黒川鶏冠山の北麓を大きく迂回して柳沢峠を超える現在の青梅街道ルートが新たに開かれ、大菩薩峠を超える旧青梅街道は街道としての役割を終えました。

「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。(承認番号 平28情複、 第19号)」
以上のような話を纏めたのがこちらの地図。今回は上日川峠から大菩薩峠に登り、そのままどこのピークにも登らずに(笑)、旧青梅街道こと「丹波大菩薩道」を通って丹波山村役場方面まで歩いてみます。なお、途中で小菅村方面に下りる「小菅大菩薩道」というのもあり、現在の登山者はこちらを通る人のほうが遥かに多いようなんですが、このルートは明治以降に開かれたルートのようです。いずれまた改めてということで、今回はパスします。
今回のルート・タイムの詳細も、ヤマレコに登録してあります。そちらもあわせてご覧ください。
またしても前回の更新から間が空いてしまいました。前回記事アップ後、すかさず次の記事を・・・と思っていたんですが、今回の記事は地図を描いたりとかがあったので、愚図愚図しているうちにあっという間に2週間。記事そのものは7月24日の話なので、もう2ヶ月も前の内容です。古い話になりますが、平にご容赦を。
さて、今回のお題、山に登る話ではありません。山歩きには違いありませんが、ピークらしいピークには登ることがありません。まだ歩いたことのなかった、尾根筋上の古道を歩いてみたお話です。
昨年の7月、大菩薩峠の南にある石丸峠から東に延びる長大な尾根、「牛ノ寝通り」を奈良倉山まで歩いたことがあります。自然林の中の道が続く、なかなか気持ちのよい尾根歩きのできるルートでしたが、その後いろいろと調べてみると、この牛ノ寝通りがかなり古くから存在する要路であることがわかってきました。東京都(武蔵野国)から山梨県(甲斐国)を結ぶルート、現在では甲州街道(国道20号)、青梅街道(国道411号)が有名ですが、この2つのルートは実は江戸時代以降に整備されたルートです。それ以前、律令時代に整備された、武蔵府中(東京都府中市)と甲斐府中(山梨県甲府市)を結ぶ官道の一部がこの牛ノ寝通りなんだそうです。
この官道「古甲州道」は、東京の府中市から発してあきる野市から秋川沿いに檜原村の本宿(檜原村役場のあるあたり)まで延びています。その先、払沢の滝の脇から浅間尾根に登って尾根伝いに三頭山と御前山を結ぶ主稜線に達し、そこからが風張峠経由と言う話と鞘口峠経由と言う話があってはっきりしないのですが、現在の山のふるさと村のあたりまで一旦下りているようです。さらに多摩川・小菅川沿いに小菅村に向かい、大マテイ山の西側で牛ノ寝通りに上がります。牛ノ寝通りの終点の石丸峠からは熊沢山を越えて現在の大菩薩峠を通り、西側に下りて裂石経由で塩山、甲府に至っていたようです。
結構起伏が激しいルートですよね。最初から多摩川沿いに道を作れば楽なのに・・・という気もしますが、多摩川沿いはあの通り深い渓谷が続いています。当時の土木技術では川沿いの急斜面に道を作ることも維持することも難しく、建設や維持の楽な尾根伝いのルートになったのではないかと思います。現在でも沢沿いの登山道は崩落その他で維持が難しく、雲取山東麓の大ダワ林道のように廃道になってしまうこともありますよね。
さて、江戸時代に入ってからは状況が大きく変わります。ご存知のように天領であった甲斐は江戸が攻められたときの将軍の避難先ともなっており、避難路である甲州街道が整備されます。また、江戸城築城に必要な資材、石灰(漆喰の原料)を運び出すため、かの大久保長安によって青梅市成木(高水三山のあたり)まで道路が整備されます。この道路が多摩川沿いに次第に延びていき、青梅街道となったようです。こうなると多摩川沿いに移動したほうが楽ですから、かつての官道、浅間尾根に登って下りて、牛ノ寝通りに登って下りて・・・を繰り返していた古甲州道は次第に廃れ、地元の生活道路となっていきます。
ただ、江戸時代の青梅街道、現在の柳沢峠経由のルートではありませんでした。丹波山(たばやま)村役場付近から村の南側の尾根筋に入り、さらに牛ノ寝通りの北側の尾根筋を通って大菩薩峠を超え、裂石まで下るルートが当時の青梅街道です。また、ご存知の方も多いと思いますが、当時は現在の大菩薩峠よりも北側、親不知ノ頭と妙見ノ頭の鞍部である「賽ノ河原」が大菩薩峠となっていました。中里介山の大河小説「大菩薩峠」の冒頭で、主人公の机龍之介が老巡礼を斬り殺すシーンはこのあたりが舞台です。
青梅街道は標高1,900m近い大菩薩峠越えがあるとは言え、小仏・笹子の二つの峠を超える甲州街道よりは登り下りが少なく、江戸から甲府までの距離が2里(8km)短いため通る人はそれなりに多かったようです。なにより、途中に関所がないため無宿人や渡世人のような訳ありの人たちには好んで利用されたようです。
旧大菩薩峠は「丹波大菩薩峠」「上峠」などと呼ばれ、「小菅大菩薩峠」「下峠」などとも呼ばれていた石丸峠と対になっていたようです。しかしながら、旧大菩薩峠の前後は道も急で、冬季は風雪が激しく遭難者がたびたび出たようです。そういうことから明治9年に現在の大菩薩峠を通るルートに付け替えられたそうなんですが、2年後の明治11年には黒川鶏冠山の北麓を大きく迂回して柳沢峠を超える現在の青梅街道ルートが新たに開かれ、大菩薩峠を超える旧青梅街道は街道としての役割を終えました。

「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。(承認番号 平28情複、 第19号)」
以上のような話を纏めたのがこちらの地図。今回は上日川峠から大菩薩峠に登り、そのままどこのピークにも登らずに(笑)、旧青梅街道こと「丹波大菩薩道」を通って丹波山村役場方面まで歩いてみます。なお、途中で小菅村方面に下りる「小菅大菩薩道」というのもあり、現在の登山者はこちらを通る人のほうが遥かに多いようなんですが、このルートは明治以降に開かれたルートのようです。いずれまた改めてということで、今回はパスします。
今回のルート・タイムの詳細も、ヤマレコに登録してあります。そちらもあわせてご覧ください。
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