筑波の道。
こんばんは。
通っていた学校の校歌って覚えています?大抵その地域から見える山なんかが歌詞に織り込まれていますよね。例えば、私が通っていた香川県高松市郊外の小学校だとこんな出だしです。
「明け行く屋島 雲晴れて・・・」
屋島とはご存知の方も多いと思いますが、高松市の東に聳える標高300m程のメサ(卓上台地)で、源平合戦の古戦場です。那須与一の『扇の的』や、『義経の弓流し』なんかのエピソードが有名ですね。私の通っていた小学校は高松市の南の外れにあったので、ほぼ真北にこの屋島を見ることができました。ちなみに私の母方の先祖は屋島の合戦の折、平家に召集されて渋々屋島に参陣したものの、敗色濃い平家に付き合ってられるかと隙を見て脱走。東に向かって逃げている最中に徳島方面から進軍してきた義経軍に遭遇、そのまま義経軍に加わって屋島の平家を攻めたという、実も蓋もない寝返りをやったらしいです(笑)。
さて、その後父の転勤で千葉県に引っ越してきたんですが、千葉は最高標高地点でも400mほどの日本一平べったい県で山なんか殆んどありません。特に北部だとどっちを向いても山がありません。校歌に読み込む山も、他県の山になってしまいます。例えば通っていた高校だとこんな具合。
「・・・波路遥かに仰ぎ見る 富士の高嶺の素直さは・・・」
海の向こう、100km以上も離れていて間に一都一県を挟んだ富士山を読み込んであります。何だか節操がないですね。その点、中学校の校歌はもう少し控えめでした。
「遥かに望む筑波嶺に 大地と生命育みて・・・」
こちらも直線距離で50km以上はありますが、一応は隣県の筑波山にとどめてあります。まあ確かに天気が良いと中学校の北に広がる森の向こうに筑波山がよく見えましたし、毎月何回かは千葉市の北隣、習志野市の第一空挺団が降下訓練をやっていて、筑波山をバックに飛ぶC130の後ろからパラシュートがぽろぽろ飛び出すのも見えました。
今回の山歩きはこの筑波山がターゲットです。これまで、筑波山には観光客としてしか行ったことがありません。つつじが丘の駐車場に車を停め、ロープウェイで女体山の山頂近くまで行って数分登って終わり、の世界です。これではとてもじゃないけど登山とは言えないので、きちんと登り直しをしてきました。

こちらは筑波山の中腹にある筑波山神社裏の森です。ご神木のようですね。この筑波山神社が筑波山の登山道の表玄関となります。
ところで。話はちょっと変わりますが、連歌ってご存知ですよね。五七五の発句に他の人が七七の下の句を付け、さらに別の人が五七五の上の句を付け・・・を繰り返していく連作形式の和歌です。大体百句くらいは続けることが多かったらしく、「百韻」とも呼ぶそうです。私みたいに風流には程遠い人間は、真っ先に思い出すのが天正10(1582)年5月24日、京都の愛宕神社での連歌でしょう。明智光秀による発句「時は今 雨が下しる 五月哉」が信長を討つ決意を表しているとされるアレ、いわゆる愛宕百韻ですね。
この連歌ですが、別名を「筑波の道」と言うそうです。日本書紀などに見える日本武尊の東征伝説の途上、甲斐の国の酒折の宮(山梨県甲府市、JR酒折駅近く)で日本武尊が詠んだ次の歌
「にひばり(新治) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」
に対して配下の諸将の誰もが返歌できずにいたところ、身分の低い御火焼翁(みひたきのおきな、かがり火番の老人)が
「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」
と返し、日本武尊がこれをいたく褒めて国造に任じたという故事から来ているそうです。ちなみに歌の形式が五七五ではありませんが、これは片歌(かたうた)という、万葉以前に盛んだった五七七の歌の形式らしいです。でも、筑波山麓から甲府盆地まで10日で移動しているんですね。その間に武甲山の石室に甲(かぶと)を納め、奥多摩で白鹿(シシ神?)退治をして道案内をした狼を御岳山に神として封じ・・・と結構忙しい道中です。
今回は文字通り、この「筑波の道」を歩きます。
通っていた学校の校歌って覚えています?大抵その地域から見える山なんかが歌詞に織り込まれていますよね。例えば、私が通っていた香川県高松市郊外の小学校だとこんな出だしです。
「明け行く屋島 雲晴れて・・・」
屋島とはご存知の方も多いと思いますが、高松市の東に聳える標高300m程のメサ(卓上台地)で、源平合戦の古戦場です。那須与一の『扇の的』や、『義経の弓流し』なんかのエピソードが有名ですね。私の通っていた小学校は高松市の南の外れにあったので、ほぼ真北にこの屋島を見ることができました。ちなみに私の母方の先祖は屋島の合戦の折、平家に召集されて渋々屋島に参陣したものの、敗色濃い平家に付き合ってられるかと隙を見て脱走。東に向かって逃げている最中に徳島方面から進軍してきた義経軍に遭遇、そのまま義経軍に加わって屋島の平家を攻めたという、実も蓋もない寝返りをやったらしいです(笑)。
さて、その後父の転勤で千葉県に引っ越してきたんですが、千葉は最高標高地点でも400mほどの日本一平べったい県で山なんか殆んどありません。特に北部だとどっちを向いても山がありません。校歌に読み込む山も、他県の山になってしまいます。例えば通っていた高校だとこんな具合。
「・・・波路遥かに仰ぎ見る 富士の高嶺の素直さは・・・」
海の向こう、100km以上も離れていて間に一都一県を挟んだ富士山を読み込んであります。何だか節操がないですね。その点、中学校の校歌はもう少し控えめでした。
「遥かに望む筑波嶺に 大地と生命育みて・・・」
こちらも直線距離で50km以上はありますが、一応は隣県の筑波山にとどめてあります。まあ確かに天気が良いと中学校の北に広がる森の向こうに筑波山がよく見えましたし、毎月何回かは千葉市の北隣、習志野市の第一空挺団が降下訓練をやっていて、筑波山をバックに飛ぶC130の後ろからパラシュートがぽろぽろ飛び出すのも見えました。
今回の山歩きはこの筑波山がターゲットです。これまで、筑波山には観光客としてしか行ったことがありません。つつじが丘の駐車場に車を停め、ロープウェイで女体山の山頂近くまで行って数分登って終わり、の世界です。これではとてもじゃないけど登山とは言えないので、きちんと登り直しをしてきました。

こちらは筑波山の中腹にある筑波山神社裏の森です。ご神木のようですね。この筑波山神社が筑波山の登山道の表玄関となります。
ところで。話はちょっと変わりますが、連歌ってご存知ですよね。五七五の発句に他の人が七七の下の句を付け、さらに別の人が五七五の上の句を付け・・・を繰り返していく連作形式の和歌です。大体百句くらいは続けることが多かったらしく、「百韻」とも呼ぶそうです。私みたいに風流には程遠い人間は、真っ先に思い出すのが天正10(1582)年5月24日、京都の愛宕神社での連歌でしょう。明智光秀による発句「時は今 雨が下しる 五月哉」が信長を討つ決意を表しているとされるアレ、いわゆる愛宕百韻ですね。
この連歌ですが、別名を「筑波の道」と言うそうです。日本書紀などに見える日本武尊の東征伝説の途上、甲斐の国の酒折の宮(山梨県甲府市、JR酒折駅近く)で日本武尊が詠んだ次の歌
「にひばり(新治) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」
に対して配下の諸将の誰もが返歌できずにいたところ、身分の低い御火焼翁(みひたきのおきな、かがり火番の老人)が
「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」
と返し、日本武尊がこれをいたく褒めて国造に任じたという故事から来ているそうです。ちなみに歌の形式が五七五ではありませんが、これは片歌(かたうた)という、万葉以前に盛んだった五七七の歌の形式らしいです。でも、筑波山麓から甲府盆地まで10日で移動しているんですね。その間に武甲山の石室に甲(かぶと)を納め、奥多摩で白鹿(シシ神?)退治をして道案内をした狼を御岳山に神として封じ・・・と結構忙しい道中です。
今回は文字通り、この「筑波の道」を歩きます。
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